今日のヒトとナリ
日刊ベリタに『初のサウジ女優主演の映画、アラブ諸国で上映へ 母国では上映不許可に』という記事が載っている。
【東京29日=齋藤力二朗】映画館の存在すら認められていないサウジアラビアでこのほど最初の映画「カイファル・ハール」(お元気ですか?)が制作され、同国で最初の女優がヒロイン役を演じた。映画は今夏、アラブ諸国で上映される予定だが、製作したサウジアラビアでは上映は許可されない見込みだ。
アラブ方面のジェンダー状況はよく知らなかったが…。昔「ソ連は最後の外国」と誰かが言っていたような記憶があるけど、まだまだ世界には「外国」があるなぁ。
ロイターに『「ブロークバック・マウンテン」、同性愛者団体が授賞』という記事が載っている。
livedoor ニュースに『[働く女性の実情]中高年の社会進出、働く意欲十分』という記事が載っている。
厚生労働省は29日、各種統計から女性と仕事にまつわるデータを寄せて整理した「05年版働く女性の実情」をまとめた。
厚生労働省:白書、年次報告書等のページにはまだ平成16年版までしかないような。
東京新聞に『神奈川 人権教育など4本柱 市が『推進基本計画』骨子』という記事が載っている。
分野別施策として▽子どもの人権▽男女共同参画▽外国人市民▽ホームレスの自立支援−など九分野を位置づけている。
愛媛新聞社ONLINEに『県男女共同参画計画の見直し案まとまる』という記事が載っている。
ゲイジャパンニュースに『米ソニー・ピクチャーズ、同性愛者の監督が手がけた映画を買収』という記事が載っている。
Sankei Web に『「日本の竹島、韓国占拠」 高校教科書検定』という記事が載っている。
「ジェンダー」(社会的・文化的な性差)については現代社会や家庭科など38種類が記述。「男らしさ・女らしさ」の否定ととられる記述などに検定意見が付いた。「ジェンダーフリー」(性差否定)は、現代社会の2種類にあったが、検定によって消えた。
「引用」と一般人の権利について
インターネットと WWW の本格的な普及
私たちは今、インターネットと WWW の本格的な普及の時代に生きている。インターネットの上に築かれた WWW は、ハイパーリンクによって結ばれたネットワークである。WWW に公開された膨大な情報の中で、私たちは、検索エンジンを使って求める記事を探す。検索語を打ち込み、Enter キーを叩いて、検索結果に引用された記事の題名と内容の一部を頼りに、どのページに飛ぶかを決める。ある命題に基づいて特定の分野の記事へのリンクを集めた Web サイトを利用するのも、それと同じことである。
「引用」の古い基準
ところで、日本新聞協会の Web サイトにある「見解 1997.11」というページの、『ネットワーク上の著作権に関する新聞協会見解』という(この HTML には<h1>〜</h1>等の見出しを示すタグがないので、この一行が見出しにあたるのかどうかよく分からないが)1997年11月6日の日付が付いているいかにも古そうな文章に、次のようなくだりがある。
しかし、著作権法第32条は、「この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行われるものでなければならない」という枠をはめています。
この規定に当てはめると、引用には、報道、批評、研究その他の目的に照らして、対象となった著作物を引用する必然性があり、引用の範囲にも合理性や必然性があることが必要で、必要最低限の範囲を超えて引用することは認められません。また、通常は質的にも量的にも、引用先が「主」、引用部分が「従」という主従の関係にあるという条件を満たしていなければいけないとされています。つまり、まず自らの創作性をもった著作物があることが前提条件であり、そこに補強材料として原典を引用してきている、という質的な問題の主従関係と、分量としても引用部分の方が地の文より少ないという関係にないといけません。
この文章は各新聞社のサイトから著作権についてなどと称してリンクされていたり、要約が掲載されていたりする。一応このような認識が、言論をマスメディアが寡占していた時代には基準としてほぼ認められていたようである。
一般人の言論の自由を守ること
しかし、このような認識には問題がある。例えば、この文章では批評等のための引用について、「分量としても引用部分の方が地の文より少ないという関係にないといけません。」
と書いている。これは、言論活動は報酬をとって原稿を書くような文筆業者だけが行うものであるというような前提によっているようだ。
WWW の時代においては、多くの時間を執筆にあてられる職業的文筆家だけでなく、WWW に参加できるすべての人が言論活動を行うことができる。それでも、文筆業者ではない一般人は、文章を書くことにそれほど多くの時間をさけるわけではない。それほど多くの文章を書くことはできない。
それなのに、「分量としても引用部分の方が地の文より少ないという関係にないといけません。」
などという主張が通れば、一般人は言論の自由を害されることになる。時間はないが、何か一言だけでも批評を加えたいというような活動がやりにくくなってしまう。
このような主張を通すことは、今や非常識で、非現実的で、場合によっては反社会的なものでもある。著作権は保護されるべきだが、それは妥当な範囲においてのことだ。著作権だけが守られるべきものではないし、著作権が言論の自由と平等を侵すことは認められない。著作権が表現の自由や文化的な生活を送る権利を侵害したり、それによって民主主義の発展を阻むことは妥当ではない。膨大な情報の中から自分に必要な記事を探し、それを知る権利も守らなければならない。
著作権の過保護によって特定少数に特権を与えることには、法秩序を乱すという意味において、本質的な違法性がある。表面的に合法化しても同じことだ。それは本質的な意味において、どこまでも違法なのである。